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理事長の想い その1
 知的に重い発達障害のある人の事を話していると涙が出てくる事がある。それは、彼らの現状や将来の事を話している時である。――何故かと考えてみると、彼らが「自分らしく」生きられていない と思えるからである。
 彼らが「自分らしく」生きる為に自分ではどうしようも出来ないもどかしさを感じるからである。
 今のストレス社会・不景気社会において、誰もが「自分らしく」などと言っていられる日本ではないのだが、「自分らしく」はないにしても各々がストレス解消していたり、その術を知っていてなんとか自分を見失わずに、最小限の「自分」を確保している 人がほとんどなのだが、知的に重い障害があるとそれすら出来ないのである。
 つまり僕が考える事の一つは、同じ社会で生きる者同士として、彼らの最小限の「自分」を確保してあげられるケアである。 また、これが最低限のサービスだとも思う。
 たとえどれだけ知的に重いハンディーがあっても感情はある。
 それは、喜怒哀楽(喜びと怒りと悲しみと楽しみ。人間のさまざまな感情。(大辞林第二版より))である。
 その喜怒哀楽の感情がバランスよくある事が「自分らしく」を保てる要因であると思う。
 ここ最近の若者(僕も含まれるのだろうか…?)が、喜と楽だけが満たされる事=「自分らしく」と勘違いしている傾向にあるが、 それはそうとして、知的に重い障害のある人達の”喜”と”楽”の少ないこと…。そして、”怒”と”哀”の多いこと…。これらは今に始まったことではないが、僕はこの”喜”と”楽”が彼ら知的に重いハンディーのある人達に「自分らしく」生きられる大きな要素だと思う。
 ”怒”(苛立ちを含む)と”哀”は、情緒不安定であると起こりやすい。
 つまりその情緒不安定を取り除くには”喜”と”楽”があれば良いのである。しかし、この”喜”と”楽”は特に知的に重いハンディーのある人達にとっては自分一人ではなかなか起こせない感情で もある。
 実際に僕自身が彼らと関わっていて分かったのだが、僕らが関わって始めて”喜”と”楽”の感情を起こされることの方が多いのである。
 そして、その”喜”と”楽”があった後ほど彼らの心は安定しやすく、”怒”(苛立ちを含む)と”哀”にも耐えられ「自分らしく」なれ、療育にも威力を発揮するのである。つまり障害あるなしにかかわらず誰でもそうであるが、最小限の「自分」を確保されないのに、ああしろ。こうしろ。と教え こもうとされても身につかないものであるし、逆にストレスの元となり精神さえも虫食んでいきかねないのである。
 そんな、彼らが最小限の「自分」を確保するのに必要な”喜”と”楽”を与える事のできる理解者がまだまだ社会には不足しているため、僕はこの『NCP』で彼らの”喜”と”楽”を演出していきたい。 先にも書いたが、それが、介護という面では最低限のサービスであると思うしそうでなければいけない。