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2004年10月23日

新 潟 県 中 越 地 震

活動レポート その後(5年後A)


集落開発センターの被災← 震災直後、断層によって基礎が破壊され、赤札が付いて倒壊の恐れがあるとなった「集落開発センター」は、復興の過程で、雪が降る冬の前に↓のように取り壊されました。
集落開発センターの取り壊し







 そして、↓のように今は新しい建物が立っています。
 断層を避けて立てられているだけでなく、基礎もしっかりとガッチリ固められ、緊急時の避難場所としての機能も期待出来ます。
現在の集落開発センター
被災直後は、仮設の集落開発センターが建てられていました。当時は、集会場としての機能だけでなく、地域の復興拠点としてボランティアさんと地域住民の手で、地域サロンなども開かれただけでなく、世界中を飛び回る長野県飯山市の有名な演奏家である、丸山祐一郎さん(通称:マリオ)さんYouTube動画参照が2度にわたって仮設集会場で演奏された他、杉良太郎・伍代夏子夫妻も慰問に訪れています。
 他にも、折り紙先生、マッサージ師さん、色んな方々が、仮設集会場で被災地の方々地区の震災イベントに支援をしています。
 また、各地区には防災庫なども新たに設けられるなどし、震災に対する備えも充実しているようでした。左下の写真の杉の木の右下にあるのが、それだそうです。
 震災直後はこのファイヤーのある場所に、仮設住宅が建てられました。今はその跡形もなく(中学校や小学校の後もその名残はありません)普段の使われ方に戻っていました。
←地区の震災イベントでの模様、ここで私も住民と共に、この地区からも出た被災死亡者の方に黙祷をしています。

 ”モチベーション”から”絆”へ、震災後地元の人もボランティアさん達にも疲れが出始めたころ、確か商工会議所を中心に左の写真のウィンドブレーカー(黄色も)が作られました。地元の人からボランティアさんまでがこのウィンドブレーカーを着て、復興に向けてモチベーションを上げることが出来ました。そして、今は右の写真のTシャツが地区で作られています。他にも震央と書かれたTシャツもあるのですが、震災間近のような意味合いではなく、”絆”を意味し地域の絆だけでなく、震災復興を手伝ってくれた日本全国の多くの人々との絆をも意味しています。
新潟の色、オレンジのウィンドブレーカー「がんばろう!越後かわぐち”と書かれています。黒のTシャツ「ROAD WALK OF KIZUNA」と書かれています。


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